・愛宕山と愛宕信仰
 
 
 
 
 

「愛宕山と愛宕信仰」 八木 透 (京都愛宕研究会会長・佛教大学教授)

 京都市内の北西、戌亥の方向にひときわ高く聳える山が見えます。それが愛宕山です。愛宕山の標高は924mで、かつての山城国と丹波の国の国境に位置し、京都市内から臨める山々の中では最高峰です。愛宕山は8世紀初頭の大宝年間に、修験道の開祖であるとされる役行者と加賀白山ゆかりの僧泰澄によって開かれたとの伝承を持つ霊山です。今日の愛宕神社は全国各地にある愛宕社の本社として、主祭神は伊弉冉尊とその子の火神である迦遇槌命が祀られ、人々から火伏せの神として尊崇されています。

 平安時代に、愛宕山には白雲寺という密教系の寺院が建立され、以後この寺院が愛宕山の実権を握ってきたといわれています。また中世には多くの修験者が愛宕山に住んだとことから、「愛宕権現太郎坊」とよばれる天狗と考えられるようになりました。一方、白雲寺には本地仏として勝軍地蔵が祀られました。勝軍地蔵を尊崇する者は戦で勝利を得るといわれ、特に明智光秀や伊達正宗などの戦国武将たちにその信仰が広まりました。明智光秀が、本能寺で主君の織田信長を討つ直前に愛宕山に籠り、連歌会を催したことはよく知られています。
近世に入り、徳川幕府を中心とした平和な時代が訪れると、軍神としての勝軍地蔵はその性格を変え、戦にも勝てる力を備えた地蔵ゆえに、火伏せも叶えてくれるだろうとする思想から、愛宕は、一般庶民の間では竈に祀られる火の神として信仰を集めるようになります。人々は愛宕山へ参拝し、火伏せの護符と愛宕の神花である「樒」を持ち帰って火災からまぬがれることを祈願しました。その信仰は現在まで受け継がれています。
時代は近代に入り、明治初年の神仏分離令にともなう廃仏毀釈によって、愛宕山の白雲寺は破却され、それまでの仏教色は完全に廃されました。以後は寺僧が神職となり、今日の愛宕神社に引き継がれましたが、幸いに本尊であった勝軍地蔵は破却からまぬがれて、京都西山大原野にある天台宗金蔵寺に移され、今日ではそこで祀られています。

 ところで、「お伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕さんへは月参り」ということばがあります。近世以降、村々では愛宕講を組織して愛宕へ代参月参りを行ないました。代参者は祈祷済みの護符と樒を受けて帰村すると、まず村の氏神境内の愛宕社や愛宕灯籠などへ護符を納め、村全戸へ護符と樒を配ります。愛宕の護符は、家々では竈神である三宝荒神や台所の柱や壁に貼り、樒は竈の上などに置いて火難除けを願いました。
また、子どもが3歳までに愛宕へ参ると一生火災の難をまぬがれるといわれています。これは祭神である母神伊弉冉尊が迦遇槌命を出産する時に火傷で亡くなったという故事に由来するものと思われますが、愛宕が産育の神として信仰されていた一面もあると考えられます。

 

【写真上】鳥居形と愛宕山/出水伯明氏撮影
【写真下】お札さんのある風景(嵯峨鳥居本平野屋にて)/出水伯明氏撮影